昭和45年03月15日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは、信心のけいこをしに来るのである。よくけいこして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子どもがある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくることは出来ぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 信心は、見易いものじゃないと。ああ、難しゅうものではないと。ね。見易う信心するがよいとおっしゃるような御理解を頂いておりますが、この七十一節もなんとはなしに、受ける感じがそんな感じが致しますね。まあ、いうならひまな時、に、うちに都合があるに時は、参ってこれんから、都合の良い時に、まあ、参ってこいというわけですからね。都合の良いときに、参ってくる。
 ところがここで私が分からせて頂かなきゃならん事は、ここへは信心の稽古をしにくるのであると、よく稽古をして帰れとこう仰っておる。ただ参ってくるだけでは無い。ここへは信心の稽古をしにくるのである。よく稽古をして帰れと。拝んだお願いをした。すっと帰ると言う様な事ではいかん。一番最後ん所にもまめな時ここへ参って信心の稽古をしておけとこう。ここの七十一節は、稽古と言う事をだいたいは、焦点に頂かなきゃならんのじゃないかとこう思う。
 丁度真中になりますとね、夜夜中、夜夜中どう言う事があるやらわからん。おかげはわが家で受けよと。子どもがあるものや日傭取りは、出てくるわけには行かん。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。だからその感じからまあ都合の良い時にお参りをすると言う様な風に頂きますと、この御理解はまあいうなら生きた頂き方ではなくて、死んだ頂き方のように感じますね。
 勿論信心をさせて貰うからには、工夫がいります。やっぱ色々工夫しなければなりません。今こうして、朝の御祈念が大変参拝が多くなった。矢張り1時の御祈念にもこの頃やっぱり、お参りがある様になった。四時の私の御祈念の時には、もう必ず又お参りをする方達が出てきた。勿論夜の御祈念には尚更ですけれども。矢張り4時の御祈念の方が都合が良い人もある。1時の御祈念ぐらいが都合の良い人ある。ね、
 まあ言うなら自分の都合の良い時にお参りをしておる。まあ今日は日曜ですけれども、この頃大変目立つ事は、日曜が大変参拝が多い事ですね。もうお届けが12時に下がる時にまだ、でけとらんぐらいにあるくらいにありますもんね。やはりここに日傭取りというような言葉を使っておりますが、まあサラリーマンの方達は、そういつも参って来る訳にはいかん。だから日曜日を利用してしかも最近は、みんな自家用車ですから家族中でお参りすると言う様な方達が多くなってきた。
 まあ日曜楽しんでお参りをしてくる。または自分の心の中に、一つの節度を持って、まあ普通は中々お参りは、でけんけれども1日15日だけは、是非お参りさせて頂きたいと言う様な人達も段々でけてきた。矢張りそれぞれに工夫をなさっておられる訳ですよね。ところが、その朝の御祈念などにお参りをしてくる人達は、矢張りサラリーマンもあるし、または家に病人がある人もあるかもしれん。ね、
 いろんな都合のあるかもしれんけれども、やはり朝参りはね朝参りは、例えば日傭取りでも出来るということですね。言うなら、家に病人があってもです、その人一人じゃないから誰かに頼んで、例えば今北野の上野さん達なんかは、夫婦で毎朝お参りが、ね。もちろん小さい子供二人を家に、休ませてある。まあどうぞ帰るまで寝て憶えんごとという願いを、まあ持っておられることだろうと。
 夜中にじゃない、夫婦で参っておられるから、参っておられる間に、子供が起きたりしたらやっぱり寂しがる。けどもそこん所をです。矢張りお願いして参って来て。私先日聞きましたら「道中帰るときに、子供達は起きとるですか」っち言うたら「いやあおかげ頂いてから、帰るまでみんな二人とも休んどる」とこう言う。ですからその病人であってもです、やはりお願いをしてお参りをしようという気になるなら、その間は静かに休んどるという、休んどるばいという程に、おかげを頂けれるわけです、ね。
 取分け朝のお参りなんかはです。ね、少し修行させて頂こうという気になれば、これはサラリーマンであろうが、日傭取りであろうが、ね。例えばどんな都合があっても朝参りだけなら、ま大体出来るという。まあそういう風に頂いてです。同時にここには信心の稽古に来る所だと私は、頂かなきゃいけんと思うですね。又の教祖様の御言葉の中に、「信心して神様に近寄らして貰うのであるから。」とあります。
 信心すると言う事はね、神様に近寄らして頂くと言う事なんです。ですから近寄らせて頂く実感と申しましょうかね。言うなら自分の心の中に、段々信心の心が強なってくるとと言う事は、神様と近づいたわけです。また次にはちょっと厳しゅう言うておられますね。「朝遅いと御祈念に力が入らん」と仰る。朝も遅う寝るだけ寝て、まあ8時か9時頃からお参りをしてくるというのではね、御祈念に力が入らん。
 「朝早く起きると、腰が据わってうろうろせん」と。「晩は、一時間か二時間か、ね、遅く寝るようにすればよい」という。もう大変厳しい事ですね。朝早う起きてです。夜は、一時間か二時間かですね、遅く寝るようにするといいと。朝早う起きてから、晩は、早う寝れと言う様な事じゃない所。ね。そう言う様な例えば、厳しいと言う事ですけれども、信心の稽古をさせて頂くと言う事になりますとですね、矢張りそういうふうにしてみようと。という気になります。
 言うなら朝の御祈念にもお参りをして、夜の御祈念にもお参りしたいと言う様な心が湧いてくる。夕べの御祈念の後に、2番目の愛子が今度学院に参ります。ですからぼちぼちまあ修行の真似事をさせて貰って、御結界もまあ受け持ち時間を頂いてから、御結界の奉仕の、も稽古させて頂いております。もう昨日はその事をそれこそ涙ながらに、これは悲しいからとか、苦しいからではないと思うんですけれども。
 もう今日はどうしてか座ろうごとのうして、座ろうごとのうして応えん。もうこけ座っておると言う事がじゅつのうしてじゅつのうして堪らじゃったっち。ね。どうしてこう言う事に成って来ただろうかと。自分がお取次ぎの座に座らねばならない様な事に、どうしてこの様な事に成って来ただろう。ね。そして色々思わせて頂く事がです。ね。あるいわば決心が着いた時ですね、例えばあの座ろうごとない程しに苦しいのだから。
 この修行を受けて立とうと思うたら、今度は有難い涙がこぼれて来たというて、又ここで有り難た涙をこぼしながらお届けしておりますね。だから苦しいとどうしてこの様な事に成って来たであろうかとね。学院に行くからには矢張り修行も当然、勉強もしなければもならない。そして座らせて頂いてとてもとてもこんなに、わずかな時間に座ろうごとのうして座ろうごとのうして、それがじゅつないという事は、とても自分は取次者としての資格は、とてもでけそうにもないと思うて、まあじゅつのうなって来た。
 けれどもそこをねどうしてなら、こう言う事に成って来たであろうかと分からせて頂く時にです、神愛を感じております。ですからその事が苦しい事であるならばです、その苦しい事を修行と思うて、受けてたとうという気になったとこういう。そしたら後は有難い。後は有難いもうしるしうてしるしうてが、有難うて有難うてと言う事になって来た。とにかくね、お道の教師をさせて、まあ志すからにはね、もう座ると言う事にね、一つの喜びが分かる感じれれるおかげを頂かなければね、絶対人は助からんです。
 ですから例えて言うとです、始めにも最後にもここには、信心の稽古に来る所とこう仰る。ですから、本気で信心の稽古をさせて頂こうと言う事に成るとですね、口実を作っては又は、口実にもならない様な口実を言うて「今日は、こんな訳で遅うなりました。昨日は、こげなふうでお参りがでけませんでした」と。言う様な私は事に成って来る。そういう私はことでまさかの時に。
 なら夜夜中いつどう言う事が起きるとも限らないと言う程しのです、時にがっちりそのおかげを受け止めさせて貰える事が出来るだろうか。見易う言うて実は厳しう言うておられる様に思うですここの所は。そうそうあんた達は中々忙しいんじゃから、まあ日傭取り行きよんなさっとじゃから、まあ暇ん時参って来いとこういう。そこでそれを受ける方の側としてはですね、その暇を作らせて頂こうとする精進。努力。
 とても今日は、お参りが出来そうにもないという中をです、そこを押してお参りさせて頂いたら、いつもよりも有難かったというものが頂けて来る。だから私は神様のそのお言葉という中にもね、私は昔頂いた御教えの中に、「神の言う事にも引いたり足したり掛けたり割ったりと言う事がある」と。神様が言うて下さる事の中にもね、引いたり押したり、掛けたり割ったりして行かなければなりません。
 そこん所が私は、我が心からも練りだせと仰るのは、そう言う事じゃないかとこう。そしてその練出す答えがです。もし楽な方が出て来る様な事では、私は稽古をしておると言う事には思われんのだと知らにゃいかんですね。最近な自分の信心は落ちよる。自分な信心が落ちよると。というふうに例えば感じてです。なんとかそこに工夫して、信心のいうなら、取り戻しをしなければならない。
 信心の例えば成程朝昼なら晩様々な、ならここで御祈念の時間が何回にも御座いますから、その御祈念の時間にお参りをしてくるという人達は、もう大体信心の稽古の味わいが段々分かって来ておる。必ず御理解を頂いて帰る。けれども稽古をして帰ろうという気持ちがなしに、矢張りお参りして来る人もある。ね、なにか一言なっとん頂いて帰らなければという願いを持って、矢張りここにも通うて来なければならん。
 来るのであると言う事。ここへは信心の稽古に来るのであると。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけという。ね。ここになって来ると非常に厳しい感じがするね。そう人間というものは、風邪ひいて頭が痛か、腹が痛かったという時なんか、年にまあるかないか位。あったて何回かぐらい。それの外の所は皆んなまめなんだからね。神様金光様はなかなかそのなんて言うかね、見易う言うた様であって、実は厳しゅう教えておられるような感じが致します。ね。言うなら平穏無事とというかね。
 なにもないそういう時には、家でぶらぶらしておって、そしてさあどうかあったとか、いう時お参りをしてくる。是では信心の稽古になりませんね矢張り。だから実を言うと皆さんの様にこうして朝の御祈念などに、お参りをして稽古をして帰られる方達には、まあ今日の御理解は、役に立たんかも知れません。けれども信心の稽古をして帰れとか、信心の稽古に来るのであると言う事になりますとでたい、ね、
 いうならばまあ行き当たりばったりに稽古させられとるけれど、実際は稽古の心構えというか意気込みというか、ね、迫力というものが薄いとか、欠けておるとかと言う事になると、やはり問題はあろうと思いますね。来る道々でも今日はどの様な事を頂くだろうか、昨日は、ああ頂いたが、あそこを一生懸命行じてみたけどわからなかったが、あれは、どう言う様な事で。と例えば言うならですね。
 こりゃ皆さんは経験がないでしょうが私は、昔それが沢山経験を持っておるけれども、お金でも借りに行く様な時です、ね、もうそりゃ出がけからそうにゃ考えますよ。第一どこに行こうかと思いますよね。で、見当着けますよ。あすこに行こか、あすこに行こかと。時間の事も考えますよね。何時頃行ったら、丁度あっちが留守じゃとかおんなさるとかって事を考えます。
 そして先ず切り出し口上をどげなふうに言っていい出そうかと、と工夫して行きながら、とうとう言い出さんなり帰って来ると言う様な事もあるくらい。もう道々なんかは、もういろいろそん時に話す、話す言葉まで心の中に繰り返し、繰り返し稽古していきます。(笑)借金しげ行く者なからにゃ分からん。ね。信心の稽古をする教会に向こうて来る時には、その様な心掛けでおれと言う事を以前に頂いた事があります。
 金でも借りげ行く時にです、どう言おうか何を一番口に切り出そうかと、ね。お参りをさせて頂いて、今日は何を一番にお礼を申させて貰おうか、ね。どこあすこん所をお詫びさせて頂いてと。そして今日頂くであろう御理解は、ね、その頂き所をです願わせて貰うと同時に、どうぞ私がいうなら、一人で頂かなければならん程しの、御理解を頂きたいと言う様にですね。そういう願いがあって、始めて私は稽古に通うて来るものの姿勢ということが言えるだろうと。そうなると矢張り難しいですね。
 ただお参りをして、ね、漠然と稽古させられておる。まあ普通それが多いですね。例えば小学校なら小学校通うなら、もう只行かんならんけん行きよると。そしてそこで今日は、何の時間何の時間という時にただ、そん時にその本を開いて教科書開いて習ろうてくる。まあそれでも憶えん事はないけれどもですね、所謂行き当たりばったり稽古帰ってして来る訳ですから、矢張りそれでは本当に稽古には、いわば身が入ったとは言われない。折角時間を潰すのですから、その時間が充分に矢張り稽古の時間であったと。
 はぁ今日はここん所の稽古が出来た。ここん所が解ったと、まあ思うて帰れるおかげ。先日から、十三日会の時にも、話があっとりましたが、あの今度おかげの泉が編集されましてね、今度また次の第二話、二話が出るでしょう。昨夜は、教学研究会でしたから、そういうことを取り上げられたのだろうとこう思います。そうしてですね、あの確かに、頂いたはずの御理解をあれを持って読ませて頂きますとですね。
 又改めて解らせて頂く事が沢山あると言う事。いかにあの朝あぁして頂いとったと言う事は、ただ聞き流しの所も多い、かと言う事が分かると。あのおかげの泉は、もう私がお話をしておるそのままを活字にして御座いますですからね。ですから本当まぁあの時のあの御理解が、ここのこれに出ておるが、あの時にはこう言う事も頂いたと言う事を改めて、あのおかげの泉を見て思うとこう言われる。
 ま、そこは皆さんも同感であろうとこう思います。ですから本当に矢張り信心の稽古をするというなら、矢張りそこまでですね、今日の頂いた御理解をですま少し噛み砕いてみるとか、もう一辺頂いてみるとかという、稽古の姿勢というものをもっと、作った方が皆さん身の為だと言う事が分かります。ね。おかげを頂かんならんのですから、ね。稽古の実が上がっていきゃあ、是はおかげの方もやっぱり、頂けるのですから。
 ただ参りすりゃすればいい、ただ聞いとるだけでもいいというのじゃいかん。勿論自分の心にきちっと頂き止める所だけは頂き止めて、まあ帰るといやあそれまでですけれども。頂き止めていなかった所をです、また改めて頂くと言う事があります。ね。信心というのは只今申しました様に、神に近付かせて頂くと言う事なんです。ね。言わばまあ大変な事なんですよね。我が心が神に向かうのを信心というのじゃと。
 そういう稽古をする。しておる。昨日熊本の松村さんが参って来ておられる。丁度4時の御祈念の後に、まあこの頃十三日会の日に、お参りがあってなかった。朝の内に朝の御祈念にご主人が参ってきとりました。そっで家内と変わってくるからと、こう。ところが、私心待ちしとったけども、参ってみえませんから、どうしてお参りがでけなかったかと言ったら、やはりこういういろんな事情があって。
 お参りできなかったと言うわけですから、まあ昨日参ってみえたわけなんです。まあ合楽でもこれだけ沢山の信者さんがありますけれども、あの十三日会という日にそんならその日をお休みにしてとあんたは言うて、私にね、十三日定休日という札を書いてくれとまで言うて、私は、あんたに書いて渡したのに、十三日会お休みでけない。いわば神様の願いが成就する日として、この日だけはというふうな、その意気込みでおったはずのあなたが、ね、そういう口実ぐらいな事でお参りがでけない。
 その話を聞いて見ると聞いてみる程尚更、おかげ頂かなければならん事が分かる。先日からずっとお話しました様に、まあある所に迷うた。沢山の金を使うた。暇を使うた。それがもう早速その帳簿の上に現れてきた。ね、もう抜きも刺しもならない様な状態になった。ね。そこでまあ主人にその事を話せて頂いたら、先生主人がこう言う事を、言うてくれましたというて。
 昨日それこそ涙ながらにお届けがありました。ね。「どげん行き詰まったごとあったっちゃ、ね、合楽の親先生が、ね、太鼓判を押して、この店を始める時におかげになるってあげんおっしゃったじゃないか」と。「そん時のことば思い出したら元気がでろう」っち言って。言うてくれたとこう言うのです。お願いしてもお願いしてもおかげにならん。けれどもおかげになると、教えて頂いたたったその一言をです。
 ただそこだけに縋って、一生懸命お参りをさせて頂いたら、やはり枯れ木に花が咲く様なおかげを頂いたと。是は高橋さんの場合なんかは、その例をいつも申しますよね。昨日、松村さんがお参りして、夕べの御祈念を頂いて、今晩止めて頂いて、それでま今朝の朝の御祈念を頂いてから、まあ帰るというて現在お参りしておられますが、ね。私達がそういうその例えばあの力強いと言うか、ね。
 ただそこ一点に縋らせて頂けると言った様なものをですね。私共は銘々頂いておくと言う事は、大変有難い事だと思いますね。愈々の時に投げ出さんで済みます。その事を思い出しただけでも、矢張り元気が出てくる。出来ない辛抱がでける。ね。私は今日は皆さんにね病人や日傭取りは、忙ししゅう時にはいうならば、お参りは出来ないと。だからまめな時ここへ参って信心の稽古をしとけと言う事はです。
 実を言うたらそのまめな時言うなら、お参りの出来る時の方が多いと言う事。その多い時所を例えば疎かにする様な事ではね、私本当の信心の稽古がでけない。ね。そういう信心の稽古をさせて頂いてです、始めてですね所謂確信づけられるものが、でけて来るとこう思うです。ね。まそこを又厳しゅう教えておられるのが、先程から申しました様に、ね、朝の御祈念の後にどもお参りしたっちゃ、御祈念の本当の力はつかん。朝参りでは力が入らん。ね。だから朝参りをいわば願い進めておられるわけです。
 しかも最後にはね、人よりも一時間か二時間か朝参りせんなんけん、早う寝れとは仰らずに、反対に人よりも一時間か二時間か、ね、遅う寝れと厳しゅう教えておられます。ですからそういう私は厳しい見方を持ってです、この71節を頂きますとこの御教えは、非常に厳しい私は御理解になると思います。初めにも最後にもね、ここへは、信心の稽古とおっしゃる。参ってきてここで信心の稽古をしておけとおっしゃる。
 その信心の稽古というのはです。いわゆるまめな時と。言うなら、お参りさせて頂く工夫さえすりゃ、お参りさせて頂く時間の方が多いということ。そこを抜きにしては、私はここの七十一節は、生きてこないと思います。一辺通り読んで聞かせて頂いただけのまあ、受ける感じというのははあ、信心ちゃただほんに自分の時間が都合がでけた時、お参りしてまあ、稽古しときゃそれでええ。
 成程稽古しとくという気になればいいですけどもね、そういう人に限ってね、稽古じゃないです。ただお願いの時ばっかり参ってすみましぇんと言って参って来る。で稽古して帰らん。ね。まあそういう人達ににはあんまり、だからそのまあ今日の話は縁のない事ですけれども、ね、過程としてそれで、ま、いいんでしょうけれどもね。朝参りの稽古をなさる方達は、信心を日頃なさる方達はこの七十一節をね一つ、ね、
 朝お参りをして夜は、一時間か二時間か遅う寝る、というくらいなですね、私は信心の稽古のためにです。ね、そういうふうに頂かなければならんのじゃなかいと思います。これを厳しく頂かなければなりません。十三日会の時に、土居の久富さんの奥さんが、発表しておられましたですね。様々なその難儀のために、まあ長年信心の稽古をさせて頂いたがです、ね、そういう難儀な時こそです、いわゆる私が最近言う、和賀心学というものを修めなければならない時だと言うておられます。ね。
 所謂その難儀な時こそです。言うなら信心の稽古ができるときだと言うておられます。二十年間お参りをさせて頂いて、ね、その間いかにおかげを頂いて、和賀心学が段々分からせて頂いたかという事をです、まあ思うておられると言う事なんですから。ね、言うなら難儀な時、困った時なんか参ってこんでもええじゃなくてから、そういう時に信心の稽古をして、所謂和賀心学を本気で修めておかなければならん。
 矢張りそういうようなね、私は厳しさが出てくると言う事が、私は信心の本当の有り難さというのは、そう言う所じゃなかろうかとこう思います。そのためかどうか解りませんけれども、一番初めにもそれであり、一番最後もここへは信心の稽古をしにくるのであるから、信心の稽古をして帰れ帰れと仰る。一番最後にもここへ参って信心の稽古をしておけと。稽古稽古で終始しておられるわけなんですから、中の所もその様な厳しさを持った頂き方をしなければならんと思いますね。
   どうぞ。